“優勝請負人”工藤公康。監督としても一年目にして見事優勝。
2019/05/07
工藤 公康(くどう きみやす 1963年5月5日~)
工藤公康は、体格にそれ程恵まれていないながらもストレートは145キロ。
大きなカーブにスライダー、チェンジアップをコーナーに投げ分け相手打線を幻惑。
三振も取れる投手で、相手打線からは非常に嫌がられる存在。
西武打線は得点能力が高く、工藤程の力量がある投手なら勝ち星を量産出来打線と噛み合いは非常に良かったです。
当時の西武の投手陣はタレント揃いで、速球派の渡辺久信やオリエンタル・エクスプレスと呼ばれた、
郭泰源がおり常勝西武の投手陣の一角を担い、渡辺久信や郭泰源が一線を退いた後(能力低下)、
工藤は西武ライオンズのエース投手として君臨しました。
工藤公康は西武一筋で行くと思われていましたが、FA権を行使してソフトバンクホークスに移籍。
当時のソフトバンクには工藤と同世代の秋山幸二が在籍しており、
西武黄金期を築いた秋山・工藤がソフトバンクの主力として活躍する西武黄金期には考えられない組み合わせとなりました。
この頃西武は新興勢力が徐々に頭角を現してきている段階で新生西武ライオンズの幕開けが近い時代でした。
工藤はソフトバンクに移籍後、優勝に縁が無かったソフトバンクの初優勝に貢献。“優勝請負人”と呼ばれるようになります。
当時の監督・王は、工藤の事を1年置きのピッチャーと称していました。
工藤の成績にむらがあり、1年置きに活躍と活躍しないシーズンを繰り返していたからです。
工藤は巨人移籍後、移籍元年になんとリーグ優勝・日本一を経験。“優勝請負人”の名前を不動のものにします。
当時の巨人の監督ミスターは王から、
「工藤は1年おきのピッチャーですよ」
と言われるも全く意に介しておらず、工藤が幾ら不調でも先発で使い続けました。
工藤は巨人で200勝を達成しますが、その試合でプロ入り初となる決勝ツーランを巨人ファンで埋まるライトスタンドに叩き込んでいます。
その後横浜に人的補償で移籍。流石に“優勝請負人”の工藤も横浜だけは流石に優勝に導く事は出来ませんでした。
チームの能力が慶応大学より弱いと言われていた当時の横浜では致し方ない結果でした。
2015年、勇退した秋山のあとを継ぐ形でソフトバンクの監督に就任。監督一年目にして早くもリーグ優勝を果たしました。
ちなみに工藤公康の息子は俳優として活躍中の工藤阿須加です。
ドラマ「ルーズヴェルト・ゲーム」ではピッチャーの沖原役を務めました。
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